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2016.11.20

ディスカバーリンクせとうちに見た「パブリック」

ディスカバーリンクせとうちに見た「パブリック」

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かねてから訪問したかったONOMICHI U2。ONOMICHI U2とは尾道駅(広島県)から徒歩1分のところにある、ホテルとレストラン、バー、カフェ、物販などの複合拠点で、3年前にオープンした瀬戸内エリアで、話題のスポットだ。今回、ディスカバーリンクせとうち 代表の出原昌直さんにお話を伺ってきました。

 

ONOMICHI U2はディスカバーリンクせとうちが手がけるプロジェクトの1つで、各プロジェクトの概要は後述するが、その前提として、ONOMICHI U2が始まった背景などに触れておきたい。

 

ONOMICHI U2は元々、広島県が所有する海運倉庫「県営上屋2号」だったものをリノベーションした複合施設です。県営上屋2号はかなり長期間にわたって未利用のまま放置され、倉庫としての役割は終えていたものの、目の前には海が広がる、絶好のロケーション。なんかとか、ここを尾道の活性化ポイントにできないか、ということで「しまなみ海道を観光資源に新たな賑わい拠点を創出する」という目的で、広島県が公募に出したところから、ONOMICHI U2の物語は始まります。

尾道という街は海のすぐ側に尾道駅があります。海を背にして駅を見て右側、つまり東側のエリアは千光寺をはじめ、数多くの寺が存在し、町歩きなど観光エリアとなっているのに対して、西側のエリアはそうした観光資源は存在しない。広島県が公募した県営上屋2号は駅近とはいえ、そんなエリアに存在する施設です。

 

その際に手を上げたのが、ONOMICHI U2を運営するディスカバーリンクせとうちでした。ディスカバーリンクせとうちは、出原さんをはじめ、地元・広島県出身の5人が設立した会社です。もっと正確にいうと、中学・高校の先輩、後輩、同級生。出原さんのほかに、福山市に本社を構える常石造船、その創業一族である神原さんなど5人で立ち上げたのがディスカバーリンクせとうちです。

 

出原さんは大学卒業後、伊藤忠に就職し、大阪で働いていましたが、独立しアパレル事業を起こしました。その後、会社を地元・広島県福山市に移し、事業は順調に拡大していく中で、一方、一つの疑問がむくむくと頭をもたげてきたと言います。それは「今のビジネスのあり方でいいのだろうか?」という疑問。

 

出原さんが立ち上げたアパレル「ディーフィールド」は上海と東京にも事務所があります。上海事務所を拠点に中国で商品を生産し、東京事務所を拠点で首都圏で商品を販売する。会社としては売上が建つものの、本社を構える広島県に、福山市にどんな貢献ができているのだろうか。「小学生のころ、多くのお母さんたちがミシンを使って内職をしていて、幼いながら、この街が繊維の街だと肌で感じていた」(出原さん)そうです。そんな思い出が残る街で、生産も販売も軸足がないのはいいのかな、というこの出原さんの思いが、ディスカバーリンクせとうちの設立へと繋がります。

 

出原さんがそんな思いを吐露した相手が常石造船の若き経営者である神原さんでした。神原さんも中学・高校の同級生。神原さんは出原さんの思いにすぐに共感してくれました。それは長く広島の、福山の雇用を支えてきた造船業を営んでいる創業一族だからこそだったのでしょう。常石造船は創業100年を超える、地域に大きな雇用をもたらしている会社。造船業の中にあって同社は経営基盤のしっかりしている会社とはいえ、日本全体で見れば、造船業も製造拠点はアジアへ移り、これまでの雇用を維持していくのがやっと、だと思います。

 

地域に雇用を作ってきた創業者の神原さんと、地元に戻って新しく会社を起こした出原さんだからこそ、分かり合える危機感がありました。ここに建築家などがチームに加わって、ディスカバーリンクせとうちは立ち上がりました。

 

そんな時でした。広島県が県営上屋2号の公募をしたのです。当初は「東京から人気ショップを誘致する」というアイデアもあったそうですが、とにかく出原さんたちは原点を大事にしたといいます。「地元に雇用を作る」これが第一。儲けることはその次。事業で儲けるだけなら、それぞれが今やっている会社を頑張ればいい。

 

「儲けよりも雇用第一」と言い切る、出原さんに私はパブリックの精神が宿っているのだなぁと感じました。これは言うは易く行うは難し、です。実際、ONOMICHI U2では事業費5億円のうち、4億円は地銀から借り入れています。儲けよりも雇用といっても、毎月の返済が滞るような事業計画では銀行はお金を貸してくれません。

 

そしてONOMICHI U2の隠れた立役者は地銀です。地銀の中に4億円の融資に奔走してくれた銀行員がいたとのこと。この銀行員もまた、パブリック・マインドを持った人だったのだと思います。「地銀だからこそ、やらないといけないことがある」、その銀行員はそんなことを言っていたそうです。かくして走り出したONOMICHI U2。ディスカバーリンクせとうちは、このほかに、シェアオフィスとしての「ONOMICHI SHARE」、U2よりも先に始めていた古民家を使った宿泊プロジェクト「せとうち湊のやど」、繊維の品質の高さを世界に発信する目的で始まった「尾道デニムプロジェクト」などについても、現場を見ながら説明を聞きました。そちらの様子は別のブログで写真で振り返りたいと思います。

 

そうそう。大切なことを書き忘れていました。わずか5人でスタートしたディスカバーリンクせとうちの雇用はいまでは300人近くに及んでいます。今回、視察をアテンドしてくれた小林さんという女性も、かつて都内で大手旅行代理店に勤務し、結婚を契機に尾道にやってきて、尾道市役所で働いていた、そんなキャリアの持ち主。安定した公務員よりも、ディスカバーリンクせとうちでの働き方がきっとわくわくするものだったのでしょう。僕はそう感じました。「小林さんだけでなく、本当に英語のペラペラで、なんでこんな人たちが、っていうくらい才能のある人たちがディスカバーリンクせとうちで働いてくれているんです」と出原さんが笑顔で語っていたのが印象的です。

 

こんなパブリック・マインドを持った出原さんに声がかかり、2015年の統一地方選挙で自民党から広島県議に初当選されています。自身が立ち上げたアパレル業、ディスカバーリンクせとうち、そして広島県議。3つのわらじを同時進行で手がけるのは、本当に大変なことだと思います。

 

でも。地方創生が叫ばれている中、自らリスクを取って事業を起こし、しかも、その事業が地域の抱える都市課題を解決することを目的にしている、そんな実践を自ら行なっている人が政治の世界に、議会は違えど存在するというのは、私自身、議員として大変勇気付けられたと同時に、嬉しく思いました。

 

伊藤大貴(緑区選出)
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